今回の話題は、とてもセンシティブな話題です。しかし、私にとってはとても重要な話題です。
他人と症状の重さを比較することは、様々な感情を生むと思いますが、そういった感情の一つの例について、書きたいと思います。
私にはブログを書く資格がない
私がこのブログを立ち上げてから、ずっと考えていることがあります。
それは、「私のような軽症な人間が、病気を語るブログを作るなんて、おこがましいのではないか」ということです。
私の頭の中では、しょっちゅう誰かが、「軽症なのに病気を語るな」「ステロイドも飲んでないくせに、働けているくせに、ちゃらちゃらブログ記事を書く元気があるくせに」と責めてきます。
そういうとき、「私がもっと重症なら、この気持ちから解放されるのに」と思ってしまうことがあります。
勝手な想像ですが、こういう気持ちって、皆さんも感じられているのではないでしょうか。
SNSでは、自分よりも症状が重い方たちが山ほどいらっしゃいます。中には、亡くなってしまう方もいらっしゃいます。自殺される方もいらっしゃいます。 そんな中で、自分の症状が快方に向かっていたり、命を脅かされていなかったり、助けてくれる人が身近にいたりするとき、みなさんはどう感じられますか?
多分手放しで、「私は超ラッキー!よかったー^^」と思う方は極めて少ないのではないかと思います。多分、何かがちくりと痛むのではないでしょうか。
「自分だけ、幸運でいいのか」と。
生存者の罪悪感
この気持ちには、名前があります。英語では、Survivor's Guilt(生存者の罪悪感)と言います。
例えば、事故に巻き込まれて、自分だけが生き残った時に、「私が生き残るべきではなかったのではないか」と考えることです。
病気においては、お友達より早く回復したりした時に、「お友達の方が早く回復すべきなのではないか」「お友達の方が価値ある人間なのではないか」と感じることです。
罪悪感は、症状に限った話ではなく、ありとあらゆる条件で起こります。お金、住んでいる場所、職場の理解、周りの人・・・少しでも相手より「有利そう」な条件があれば、罪悪感は起こります。
難病と罪悪感の関係
もちろん、自分が何か悪いことをしたわけではありません。ただの運です。相手からしても、そんな気持ちを持たれるのは迷惑でしょうし、ちょっと運がよかったことが、「幸福」とは限りません。
しかし、感じてしまうのだから仕方ありません。
そもそも、自分よりも辛い方がいるというのは事実なわけです。事実を見ないようにするのは、並大抵のことではありません。ものすごい精神力が必要です。
どんなに軽症だとしても、同じ病気や症状を体験したことがあれば、重症の方の気持ちに想いを馳せるのが自然です。
健康な人たちは、重症の方達の状況など想像もつかないので、「嘘ついてるんじゃない?」「そんな病気は存在しない」とかチンプンカンプンなことを言ってられるのですが、同じ病気の方は違います。
もちろん、当事者の辛さがすべてわかるわけではなくても、全くわからない人と比べれば、圧倒的に深く感じられるはずです。
しかも、病気と暮らしている以上、毎日毎日病気のことを考えることになります。きっと、自分より辛い方がいることを思い出さない日はないでしょう。
その度に「私はなぜ幸運なのか」と考えなければなりません。
ネットを全て遮断して、一切病気のニュースに触れず、隠居状態になり、想像力を全て捨てない限り、考えないことは難しいと思います。
罪悪感から逃れる方法
この罪悪感から、どうすれば逃れられるのか、私はしばらく考えていました。
で、結局、あきらめました。私としての結論は、「逃れる方法はない」と思います。考えない方法はないと思います。
この罪悪感は、本質的に、自分が幸運な理由を納得していないことに根ざしていますが、残念ながら、納得することは難しいと思います。何せ理由なんか存在しないのですから。
しかしそんな中でも、この罪悪感を弱める方法はあるように感じています。それは、重症ではないからこそ、自分にできることをするということです。
同じ病気でも、軽症の人たちは、ほんの少しだけエネルギーを多く蓄えています。そのエネルギーがあるからこそ、もう少し勇敢でいられるし、強くいられるし、リスクを冒すことができるし、情熱的でいられるのだと思います。
そのエネルギーを、何か良いことに使うのが、かなり心を楽にしてくれます。
重症の患者さんの言葉を、社会が聞いてくれない時に、代わりに伝える。
患者さんがSNSに戻ってこられない時にも、待っていてあげる。
情報が足りなくて心細い思いをしている方の代わりに、情報を集めてあげる。
もしかすると、仕事や家事でエネルギーを使い果たしてしまって、何の役に立てない日もあるかもしれません。そういう時には、SNSで「いいね!」をするだけでも、それは、健康な大多数の人々にはできない、かけがえのない行動なのではないでしょうか。
一生懸命に自分の幸運に報いるようにしていると、時々「自分が幸運だったのは、こうするためだったんだ」と感じることもあります。まあそれは全く幻想に過ぎない、非科学的な妄想なんですけれど、そういうときに、私は罪悪感を忘れることができます。
これが精神的に健康なのか、と言われると難しいのですが、病気になるという概念には、こういう感情と付き合うことも含まれているのかもしれません。